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寺島 忠三郎(てらしま ちゅうざぶろう、天保14年(1843年) - 元治元年7月19日 (旧暦) 7月19日(1864年8月20日))は、江戸時代後期の長州藩 長州藩士、尊皇攘夷派の活動家である。父は寺島直一。兄弟に寺島秋介。名は昌昭、作間忠三郎などの変名を名乗る。周防国(山口県)に生まれる。藩校明倫館で吉田松陰に師事した。1862年(文久2)、御楯組結成に参加、長州藩家老の長井雅楽暗殺計画にも参加する。1864年(文久3)、八月十八日の政変で長州藩が失脚した後に、久坂玄瑞らとともに禁門の変で自刃する、享年21。墓所は京都市の霊山護国神社ほか。 幕末維新側人物 てらしまちゆうさふろう

篠原 国幹(しのはら くにもと、天保7年12月5日 (旧暦) 12月5日(1837年1月11日) - 明治10年(1877年)3月4日)は江戸時代(幕末)の薩摩藩士、明治の軍人である。薩摩国鹿児島城下平之馬場町中小路で篠原善兵衛の子として生まれる。諱(名)は国幹、通称は藤十郎、冬一郎という。少年時代に藩校・造士館に入って和漢学を修め、ついで藩校の句読師となり、長じてからも和漢の典籍を読むことを好んだ。剣術ははじめ薬丸兼義に薬丸自顕流を、次いで和田源太兵衛に常陸流を学んだ。また馬術・鎗術・弓術も極め、文武両道を兼ねていた。文久2年(1862)、有馬新七らと挙兵討幕を企てたが、島津久光の鎮圧にあって失敗した(寺田屋騒動)。戊辰戦争のとき、薩摩藩の城下三番小隊の隊長となって鳥羽伏見の戦いに参戦し、その後、東征軍に従って江戸に上った。上野の彰義隊を攻めたときは、正面の黒門口攻めを担当し、その陣頭に立っての指揮ぶりの勇猛さで世に知られた。この後、奥羽へ転戦した。

柴 司(しば つかさ、弘化元年2月14日 (旧暦) 2月14日(1844年4月1日) - 元治元年6月12日 (旧暦) 6月12日(1864年7月15日))は、幕末の京都に駐留していた会津藩士である。姓は柴(しば)、諱(いみな)は次正(つぐまさまたはつぎまさ)、幼名は又四郎(またしろう)のち司(つかさ)。父は柴友右衛門次直、母は西郷氏。他に、幾馬次俊、寛次郎次久、外三郎次元の3人の兄が居た。元治元年、池田屋事件の残党狩りに追われる新選組に派遣された会津藩士の1人で、同年6月10日 (旧暦) 6月10日、いわゆる明保野亭事件を起こし、会津藩と土佐藩の関係修復のため兄の介錯のもと切腹した。享年21。武家社会のしがらみの中で犠牲となった形であるが、彼の死によって会津藩と土佐藩の衝突が回避され、その潔い最期に対して会津藩主松平容保から兄に褒章がくだされている。

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